―――カタリ。
机の上に静かに転がる筆が奏でた、小さな音。
しん…とした執務室内には、それは必要以上に大きく響き。
それと同時に吐かれた溜息もまた、耳障りなくらいに鼓膜に跳ね返ってきていた。
十番隊執務室。
この部屋に、今は誰も居ない。
たった一人の小さな少年を除いては。
この部屋がこんなに静かなのは、どれくらいぶりだろう。
誰かに対し、口うるさく怒鳴らない日がやって来るなんて思いもしなかった。
手を伸ばして、机の端に置いてあった隊長印を持ち力強く、どん、と、白い書類に打ち付ける。
黒い文字だらけの書類には一箇所だけ、赤い印がしっかりと刻み込まれた。
十番隊の文様が入った、処理済みの隊長印。
その下に、日番谷は静かに自身の名前を書き込んでいく。
書き終われば、あとはこの書類を一番隊に提出しに行くだけだ。
ひらりと、書き終えた紙を机の横に並べてある書類の山の一番上に置き。
ふぅ…っと疲れた様に息を吐く。
毎日毎日、この繰り返し。
そういえば最近は、仕事の終わりがやけに早い。
前までは、期限ギリギリに乱菊と焦りながら筆を走らせていたのに。
仕事の量は今も昔も何も変わってない。
変わったのは……自分を取り巻く身の回りの環境。
「……市丸」
ぽつりと、呟いて。
以前は必ずと言っていいほど隣に居た人の名前。
あいつのせいで、あいつが日番谷を無理やり遊びに連れ出していたおかげで、
十番隊は毎日の様に書類の提出期限に追われていたんだ。
もれはもう、昔の話。
「……馬鹿みてー」
吐いて、小さく笑う。
あんな奴が居ないというだけで、こうも変わってしまうものなのか。
仕事が順調に進むのは、いい事のはずなのに。
あんな奴、居ない方が静かでいいに決まってるのに。
……………。
そこまで考えて、小さく苦笑した顔が歪む。
居ない方がいいなんて思った瞬間、この心がズキリと痛むのを感じたから。
深く考えるのは、あまり得意な方ではない。
いつもいつも良からぬ方向に考えが進んでいって、まともな結果を出せた試しが無い。
ふぅ…と、また一つ息を吐いて。
無意識に、チラリと視線を移すはカレンダー。
見ようと思って見たのではない。
この目が勝手にそちらの方に動いていた。
赤色の印や青色の印。
市丸が、日番谷の許可なく付けたデートの日。
そして日番谷の視線が、カレンダーの上の方へと動く。
日付けではなく、大きく10月と書かれた月の文字の真下。
「もみじデート」
考えなくても解ってる。
独特な癖のある、驚く程に綺麗な字。
大好きな、あいつの字。
静かな室内に、あの日の会話が聞こえて来る様だった。
目を閉じれば今でも鮮明に浮かび上がる、あいつの笑顔と自身の笑顔。
「なぁ冬、10月になったらもみじ見に行かへん??」
「もみじ??お前本当に暇人だな」
「ひどっ。ええやんか、もみじ。綺麗やし気分転換になるで??」
「お前はいつもしてるだろうが、気分転換」
「ちゃうの!!冬と見に行きたいんよ!!」
「……暇だったら付き合ってやる」
「ほな決定な★もみじデート★」
「……っ!!暇かどうか解んねーだろーが!!」
―――カタン。
筆立てに置いてあった筈の筆が転がる音。
ハッと、我に返る。
無造作に転がった筆は机の上を何度も行き来し、そして止まった。
木製の机にぴちゃりと描かれた、黒い墨の跡。
日番谷はそれを拭く事もせずただ呆然と目線を宙に浮かせているだけ。
今だ覚めやらない、暖かった空間。
何を、考えていたんだ。
あいつはもう、ここには居ないのに。
ぎゅっと手のひらを握れば、それは冷たい感触。
消えてしまった、あいつの手の温もり。
カレンダーに書き込まれた、たくさんのあいつの字。
ハートやら二重丸やらが色とりどりの形で繋ぎ合わされていた。
「……もう、10月だよ」
不意に窓から外へと視線を移せば、そこには紅葉を向かえた木々の葉がさらさらと揺れていた。
もみじなんて興味は無いけど、あいつと一緒ならきっと楽しかっただろうに。
市丸がこの世界を裏切って数日。
四番隊の救護室で目を覚ました日番谷に突きつけられた、冷たい現実。
大好きな彼の、空に上る姿を見る事すらも叶わずに。
閑散とした病室の中で、ただ凍てついた事実のみを淡々と聞かされ。
そしてそれを、黙って受け入れるしか方法は無かった。
あの日、あいつは何でこんな約束をしたのだろうか。
俺を傷付ける為の芝居だったのか。
何度も、嫌いになろうとした。
藍染とともに消える姿を頭の中で想像しては、何度も何度も、嫌いになろうと。
しかし、その度に浮かんでくるのは、楽しかった思い出や嬉しかった出来事。
あいつの笑顔や、自身の笑顔。
今もまだ、こんなにも愛しいのに。
ずっと一緒に居よな??
いつだったか、あいつが言ってた台詞。
その時は「馬鹿か」なんて言い返してやったけど、
もし時間が戻るなら、決して離れぬ様に、あの言葉を繋ぎ止めておくのに。
「……嘘つき」
言葉を吐いて。
目の前にあった筆を手に取り元の場所へと戻す。
そして手拭いを二つ折りにして、先ほど黒く汚れた机をぎゅっ…と、粗末に拭いた。
腕に必要以上の力を入れて。
まるで初めから、墨汁なんて零れてないかの様に。
汚れていた筈の机は、今はまっさらで綺麗な机に戻された。
初めから、何事もなかったかの様に。
「……市丸」
手を止めて、愛しい人の名をぽつりと。
しかしどんなに呼びかけても、答える者は誰も居なくて。
前は、馬鹿みたいに賑やかだった十番隊執務室。
あいつが仕事をサボって遊びに来ていたから。
今でも目を閉じれば、あいつが後ろに立っている様な気がして。
思わず振り向いてしまう。
三番隊に行けば、あいつが吉良に追われてる姿を見れる様な気がして。
わざと近くを通ったりもした。
……でも、
「……もう本当に、居ないんだな」
――――ズキン。
もう何度も味わってきた、胸の痛み。
何もかもを裏切り空へと消えた、愛しい温もり。
今はただ、残酷なだけ。
「……市丸のアホ」
……ぽたりと。
枯れた筈の涙が、頬を伝う。
忘れた筈の記憶が、小さな体を侵食していく。
ぎゅっと、手拭いを握る手の力も強くなる。
いつの間に、自分はこんなにも弱くなったんだろう。
この状況に耐え切れなくて、もう何も考えられなくて、
辛くて、辛くて、辛くて。
無意識に、
ひらりと呼び寄せるは、地獄蝶。
この蝶に言葉を吹き込めば、伝えたい人の所まで確実に届けてくれる。
朦朧とした意識の中で日番谷は一人、その蝶を見つめていた。
……解ってる。
地獄蝶は虚園とやらには行かない。
どんなに伝えたい言葉でも、市丸の耳には届かない。
でも、それでも良かった。
たった一言でいいから、伝えたい言葉を口に出して言いたかった。
今まで、恥ずかしくて言えなかった思い。
あいつが言ってくれと何度もお願いしてきた台詞。
人差し指に、蝶を乗せて。
確実に届きます様にと願いを込めて。
「……大好きだよ」
ぽつりと、呟いた。
最後に一つ、大粒の涙に頬を伝わせて。
ひらひらと。
空へと舞い上がっていく地獄蝶。
頼りない足取りで、果てのない天空を目指す。
今も変わらぬたった一つの思いを、その背中に乗せて。
ひんやりと、外は冷たい風を伴い、すっかり秋の季節。
オレンジ色だった空は、いつの間にか黒を運んで月が世界を照らしていた。
不意に鼻をかすめる、夕飯を知らせるいい匂い。
パタパタと、任務で疲れた死神達の食堂へ向かう足音が聞こえていた。
あれから、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
「隊長〜、すみません遅くなりました〜」
カタリと勢い良く執務室の襖を開けるのは、この隊の副隊長。
相変わらずの長い髪と豊満なバストを揺らしながら元気に登場してくる。
疲れた…という言葉はこの女には似合わない。
「ねぇ隊長、せっかくですから一緒に晩ご飯…って、あれ??」
言いかけて、やめた。
いつもなら眉間に皺を寄せて仕事をしてる筈の少年の姿が、机に無かったから。
代わりに珍しくソファに横になる、日番谷の背中。
「……あら、珍しい」
足音を立てない様に近付いて、意地悪くその寝顔を覗き込む。
隊務中、絶対と言っていいほど居眠りなんかしない自身の隊長が今しがた目の前で眠っている。
これを見逃す手は無い。
なんて思いながら、少しだけルンルン気分で、そっ、と。
静かに寝息を立てる少年の顔を、チラリ。
「……隊長」
あわよくば、顔に落書きでもしてやろうかなんて思ってた。
写真を撮ろうかなんて考えたりもした。
「……風邪、引いちゃいますよ」
優しく、呟いて。
乱菊は自身の椅子に置いてあったストールを手に取ると、
ふわりと、その小さな体にかけてやった。
淡い桃色の暖かなストール。
乱菊の悪戯心は、一瞬にして冷めてしまった。
寝息を立てる少年の頬に、涙の跡。
赤く腫れた瞼。
自身の手で、自身の体を包み込む様にして横になった姿。
もう一度、誰かの温もりを求めているのかもしれない。
それが市丸である事を、今でも願って。
「……ギンの大バカ」
隊長〜、ギンと出来てるって本当ですかぁ??
楽しくて仕方なかった、いつかの日々。
市丸と居る時の日番谷は誰が見ても幸せそうだった。
いちゃついてる場面にわざと遭遇し、からかっては笑っていた。
ふと、つ…と、涙が零れる音。
無意識に振り返れば、それは少年の目から流れ出たもの。
何もしてやれない自分に腹を立て、乱菊は静かにストールをかけ直してやった。
僕な、冬なしでは生きていけへん。
いつもの様に、へらへらと笑いながら話す市丸の言葉を、あの日は嬉しく思ってたんだ。
相変わらずの笑みで、それが本音かどうかも解らないのに。
それでも、何だか嬉しかった。
二人で、もみじを見に行く約束だった。
暇だったらな…なんて言いながらも本当は楽しみだった。
いつになるかも解らないその約束を、馬鹿みたいに待ってたんだっけ。
―――冬〜♪♪
頭の中に何度も響く、あいつの声。
どうせ裏切るなら思い出も全て持ち去ってほしかった。
「………ちょう??」
闇に聞こえた、誰かの声。
聞きなれたその声に、無意識に耳が傾いて。
ぼんやりと、真っ白い世界が目の前に焼きついていた。
「……隊長??」
ハッ、と。
意思とは逆に瞼が勝手に持ち上げられる。
その声に驚いたのか否か、そんな事は解らない。
開いた目の前には、見覚えのある布の色。
感じた事のある柔らかい感触。
執務室の、ソファ。
「隊長、大丈夫ですか??」
「……へ??」
聞きなれた声のする方にゆっくりと目をやれば、そこには心配そうに覗き込む副官の姿。
日番谷の肩に手を置いて、恐らくは揺さぶって起こしたのだろう。
何が何だか解らないまま辺りを見渡してみれば、
そこにあるのは、いつも通りの執務室とソファに横になってる自分。
「……あれ、俺…何して…」
重い体を無理やり起こして。
不意に、痛む両目に手を当てれば、僅かに濡れた頬。
「隊長、そろそろ晩ご飯の時間ですよ♪♪」
笑顔で言って。
必要以上の上機嫌で話し掛けて。
……夢、だったんだ。
もみじを見に行く約束をした日の事、
あの日のあいつの声とか言葉とか笑顔とか、嬉しかった自身の感情とか。
その全てがまるで現実の様に感じたからかもしれない。
未だに、夢の中に居る様な気がしていた。
「……松本」
「はい??」
いつかまた、あいつに会える様な気がしていた。
居なくなったという実感が、今でも湧かなかったから。
「……寝言とか、俺…何か言ってたか??」
「いいえ。何も」
もみじの木の近くに行けば、会える様な気がした。
何事も無かったかの様にへらへら笑って、あいつがやって来る様な気がしていた。
「……ちょっと出掛けて来る」
「え??出掛け…って、どこへですか??」
簡単に、用件だけを伝えて。
急に起き上がった日番谷に驚いた乱菊が制止するも無意味に終わり。
かけてあったストールを渡す際「ありがとう」と一言伝えて。
足早に向かうは日もすっかり暮れた外の世界。
もみじを見ると約束したから…という訳ではない。
ただ何となく、その場に行きたいと心が思ってしまったから。
襖を出て長い回廊を抜け。
別に山等を登る必要なんて無い。
瀞霊廷のすぐ近くの川原のはじっこに、もみじの木があるから。
そこは近場とはいえ、たくさんの木々が生い茂る場所。
今までは素通りしてきたから解らないけど、たぶんもみじも咲いてる頃だ。
「……寒い」
さらりと、癖のある銀髪をかすめるは冷たい北風。
つい最近までは暑かったのに、季節の変わり目というやつは猫の様に気まぐれで。
すぅ…っと息を吸うだけで肺まで凍り付いてしまいそう。
ぶるりと体を震わせながら、それでも足早に。
日番谷の小さな体は無意識のうちに小川の方へと向かっていた。
ふと空を見上げれば、真っ暗な闇に月が浮かんでいた。
満月でも三日月でもない中途半端な形。
その周りを、濃い灰色と化した雲が風に流されゆらゆらと揺れていて。
思わずぎゅっと、自身の体を抱き締めた。
木々の生い茂る小川まで、そう遠くはない。
瞬歩でも使えば僅か3分程で行ける距離。
それでもこうして歩いているのは、約束したもみじを一人で見に行くという孤独感からか。
……それとも。
「……この辺だよな」
足場の悪い川原に立ち、暗い中で必死に目を凝らす。
ざわざわと、風に揺られた木々の葉が日番谷を出迎えていた。
近くに花や草や木がたくさんあるのは解るのに、どれがもみじの木かなんて判別できなくて。
無意識にじゃり…と、かすかに聞こえる水音を目指して足を進める。
今音を立てているのは、自身の足音、一つ。
本当なら、ここにもう一つの足音があった筈なのに。
またしてもズキリと、心に痛みを感じた。
ぎゅっと強く胸に手を当てて、何も考えぬ様にと前を向き。
良く目を凝らして見れば、先程の水音は小川の奏でるものだった事が判明した。
目の前に広がる、光を伴った水の流れ。
さらさらと心地の良い音を残しては暗闇の中に輝きを放つ。
「……もみじ、どれだろう」
一歩前に踏み出して。
徐々に寒さが増している様に感じるのは、小川へと近付いてるせいなのか。
未だ夏仕様のままの小さな草履からは、その冷たさが残酷なまでに伝わってきて。
歩いてるという間隔も、そろそろ無くなりそう。
上を見上げれば、先程までは出ていた月が雲の後ろに完全に隠れていた。
いつもより暗く感じたのは、月が出ていないせいなのか。
普段は人が通る様な場所では無い為、ここには街灯も民家の明かりも何も無い。
真っ暗な闇の中で、それでもうっすらと見える木々の姿を道標としてまた歩き出す。
その木の先の部分に何かが咲いてる様な気はするのに、それが何なのかは暗くて良く見えなかった。
「懐中電灯、持ってくれば良かった」
そう言いながら、来た道に目を向ける。
やはり、諦めて戻ろうか。
例えもみじを見れたとしても、寂しさを紛らわせるなんて出来ないだろうから。
それに、何でこんな夜遅くに一人で外歩いてなきゃいけないんだよ…という疑問もあり。
ざっ…と。
日番谷の足が一歩後ろへと下げられる。
ここに居ない奴の事は、きっと考えない方がいいんだ。
そう、自分に言い聞かせて。
一歩。また一歩と。
後ろ髪を引かれる思いで来た道を戻り始める。
その背中が、いつも以上に小さく見えて。
……と、その時。
ふいに感じた、暖かい月明かり。
雲に隠れていた月が再び姿を現しては地を照らしていた。
真っ暗だった小川の庭園は、瞬く間に昼間の様に明るく輝き。
無意識に、日番谷の目が辺りを見渡す。
「………あ」
見ないで、すぐに引き返せば良かった。
あのまま仕事を続けて、ここには来ない方が良かったのかもしれない。
知らなくてもいい事実が少年の目の前に突き刺さり。
明るくなった庭園に、今ならはっきりと見える木々や草達の姿。
「……もみじ、咲いてない」
花や葉は枯れ落ち。
目の前に広がるは殺風景な茶色い大木。
どの木を見ても、もみじらしき物は見当たらず。
さっと風が吹けば、またしても小さな体を震わせた。
そこに揺れるものは何も無く、ただ堂々と立つ木を見上げながら。
「……何だ」
苦笑して、下を向いて。
唯一、地を照らす月のおかげで日番谷の周りには細長い影が伸びていた。
木々の影と、少年の影、一つ。
日番谷が寒さに体を震わせれば影も一緒に揺れて。
この場には、やはり来るべきではなかった事を再確認した。
「……二人の約束は、咲かない、って事かな」
自分が望んで来たくせに、来なきゃ良かったなんて可笑しくて仕方がない。
また悲しくなってる自分にも笑いがこみ上げてくる。
くっ…と、まるでそんな己を嘲笑うかの様に無意識に笑顔を作る。
あいつが裏切って姿を消した瞬間に、もう二人の関係は終わってる筈なのに。
いやもしかしたら初めから、二人の間には何も無かったのかもしれない。
このもみじも、初めから咲く事なんて無かったのかもしれない。
市丸は、二人のもみじが咲かない事を知っていたのかもしれない。
つー、と。
笑顔の頬に流れる、涙。
「……俺の、アホ」
もう泣きたくないのに、笑っていたいのに。
勝手に流れ出る水を粗末に手で拭いて。
その瞳が赤く腫れ上がるまで、何度も何度も拭いた。
この場に、あいつが居る事を想像していた。
自分のすぐ横に、あいつが並んで歩いてる絵を想像していた。
ずっと昔から、それだけを楽しみにしていたのに。
でも現実は……。
「……そっか。あいつは初めから、俺の横なんて歩いてなかったんだ」
すぐ手の届く所に、当たり前の様に居た人。
会いたいと思えばいつでも会える場所に居た人。
寂しい時は、必ず心の癒しになってくれた人。
「……いち、まる」
月に向けて、名を呼んで。
その頬に流れ落ちる涙を拭く事もせず。
声にならない叫びは、もう彼の元に届く事はない。
咲かないもみじが、何よりの証拠だった。
どさりと、その場に座り込み。
もみじの咲かない木の下で一人。
何を考えるでもなく、ただ呆然と月を見上げて。
消えた人の姿を何度も頭の中に描いては、たった一つだけ。
―――ありがとう、と。
静かに、心の中で呟いた。
楽しいと感じた時間は、嘘じゃなかったから。
誰かを好きになる喜びを与えてくれたのは間違いなく彼だから。
その人が居なくなった時の寂しさも、教えてくれた。
幸せな日々を信じて疑わなかった、これは自分への制裁。
「……いちまる」
月を見ていた視線が下ろされ。
流れた涙を再度、ぎゅっと粗末に拭い。
痛む心の中で思い起こした、自身を守る為の決断。
「……ばいばい」
月を見上げるのは、これが最後。
この地に足を踏み入れ、もみじを見るのも終わり。
あいつの事を思い出すのも、温もりを求めるのも終わりにしよう。
悲しくなるだけだから。
隊舎に戻ったら、乱菊に執務室の模様替えをさせればいい。
あいつと過ごした日々を、忘れる為に。
自室に戻ったら、家具も布団も買い変えればいい。
あいつの残り香を、完全に消してしまう為に。
明日からは、総隊長に頼んで少し多めに仕事を貰えばいい。
あいつの事を、もう二度と思い出さぬ様に。
「……帰ろう」
ゆっくりと、立ち上がって。
下を向いたまま一歩、足を前に出して。
冷たすぎる土の感触は今はもう何も感じない。
そしてまた一歩、また一歩と。
もみじの木から少しずつ遠ざかっては隊舎を目指す。
決して後ろを振り返らぬ様に目線を前へと定めたままで。
この庭園を抜けたら、もう本当にサヨナラだよ。
「……市丸」
最後にもう一度、愛しい人の名を呼んで。
春には、花見と称して酒を飲んだ日番谷が酔っ払って、市丸が介護をしてくれた。
介護と言っても…果たしてアレが介護と呼べるのかどうかは解らないが。
夏には、暑さに負けてぐったりする日番谷を、やはり市丸が介護してくれた。
これも介護と呼べるのかどうかは解らない。
去年の冬も、しもやけで大変な事になった日番谷の足を市丸が優しく撫でてくれた。
これも…撫でるの域を越えてる様な気がするが。
今思い出した事の全ては、もう二度と思い出されぬもの。
明日になれば、その物達は綺麗さっぱり消えてるから。
とん…と、片方の足を庭園から出し、もう片方の足もその場を後にして。
これで、ようやく終わった。
庭園を完全に抜けた今の日番谷が考えるのは、掃除嫌いの乱菊にどう部屋を模様替えさせるか。
そして、どこに行けば新しい家具を買えるのかという事。
無理やりにでも、忘れないと。
とにかく足早に歩いて隊舎を目指す。
もう終わったんだから、早くこの場を立ち去ろう、そう思って。
先程とはまるで別人の様にそそくさと歩き。
目の前に広がる自身の隊舎の文字を見つけてホッ…と、一息。
……と、その時。
ふいに目線を移した、空の方。
月はもう見ないと決めていたが為に、その視線は中途半端な所で泳ぎ。
それでも何かが確実に、きらきらと輝くものが目に入った様な気がして立ち止まる。
小さく、飛んでいる様にも見えたが。
「……何だ今の」
不思議に思い辺りを見渡すが何も無し。
もしかしたら、ただ単に月が輝いただけなのかもしれない。
それにこの時間だ。街灯が目に入ったのかもしれない。
もしくは、目の前の十番隊舎に居る乱菊が、また現世で何か妙な物を買って来たのかもしれない。
さっきまで現世出張で出ていた乱菊なら、それも有り得る。
「松本に変な物を買って来るなって注意しとかないと」
溜息を一つ、吐いて。
心のどこかで何かを期待してしまった自身に腹を立て。
再び、日番谷の足が前へと動く。
……が、しかし。
「……やっぱり…何か飛んでる」
それは十番隊舎から見えたものでも街灯のものでもない。
ましてや月の明かりなんかでも無く。
先ほど日番谷が見上げた中途半端な空の位置から、小さな輝きを放つ何かが飛んで来る様な。
勘違いでなければ、それは迷う事なく少年の方へと向かって来る。
人…ではない。
不安定な足取りで、それでも必死に宙を舞い。
「……もしかして」
真っ暗な空の闇を、妖艶な輝きを放ちながら。
ゆらゆらと風に流されながらも確実に日番谷の元へ。
夕刻、たった一つの思いを込めて。
何物にも変えられない切なる祈りを込めて。
大好きな彼へと飛ばした、
―――地獄蝶。
「……戻って、来たんだ」
大好きだよ。
そう言葉を込めた一匹の蝶が、ひらりと舞い。
今しがた日番谷の元へと戻ってきては人差し指の上に乗り羽を休めていた。
この蝶は、一体どこまで飛んだのだろう。
一時の思いに流され言葉を吹き込んだ日番谷の為に、きっと遠くまで出歩いたのだろう。
綺麗だった羽は、疲れた様にボロボロになり、少しだけじんわりと罪悪感が残る。
「ごめん。その言葉、もう必要ないんだ」
話し掛け、俯き。
言葉を持たぬ蝶に話し掛けるなど、自分は相当イカれてるな、と。
また少しだけ苦笑して。
疲れた羽を、そっと優しく撫でてやった。
「後で治してやるから、な??」
任務以外にこの蝶を使ってしまった事、少しだけ後悔した。
謝りながら、その疲れた羽を優しく撫でてやる。
羽の線に沿って、頭の方から尾の方へ向けて指を滑らせ。
……と。
カサリと、乾いた音。
「……ん??」
それは日番谷の指にぶつかり自然に音を立てたもので。
感触的に、蝶の羽や足でない事はすぐに解った。
不審に思い目線を音のした方へ向ける。
「……あ」
暗闇でも、それが何なのかくらいは判断できる。
地獄蝶の細い足に、何かがくっついている。
それはこの蝶の足に自然と付いたものではなく人の手によって付けられた物。
何故なら、糸の様なもので丁寧に結ばれてあったから。
この何かが飛んでる最中に落ちてしまわぬ様に、誰かが丁寧に。
「……なん、で」
もう流さぬと決めた涙が、溢れ出し。
もう見ないと決めた庭園に無意識に視線を移し。
「……何で、こんな事」
どさりと、その場に力無く倒れ込み。
指に止まる蝶を大事に抱えて。
その足に付けられた糸の結び目を解いてやれば、蝶は仕事を終えたとでも言う様に空へと舞う。
はたはたと、やはり頼りない足取りで飛んで行ってしまった。
日番谷の手のひらに、蝶が運んだ贈り物を残して。
ぎゅっと手を握れば、そこからは暖かいものが伝わった。
久しく感じる、誰かの温もり。
確実に蝶が届けてくれた、
―――もみじの葉。
「……いち、まる。何で」
地獄蝶には、何の言葉も吹き込まれてなかった。
手紙が添えられてあった訳でもない。
それでも、このもみじの葉を送ってくれたのが誰なのか。
聞かなくても、日番谷には解っていたから。
「……いちま…ぅぐ……ぅっ…」
しゃがみ込んで、また涙を流して。
ほんの少し、これを送った人の霊圧が残ってる。
凍てついたものではなく、懐かしくてたまらない暖かい温もり。
かつて、その霊圧をすぐ横で感じていた。
あの日のあいつのものと、全く同じ。
「……何で、こんな事するんだよ…バカ市丸」
忘れようと思っていたのに。
いや、もう忘れた筈だったのに。
どうして、こんなにも嬉しくて仕方ない??
騙されてたんじゃなかったのか??
俺の事なんて、どうでもいいんじゃなかったのか??
いろんな事が頭の中を駆け巡る中、一つだけ確かなのは。
この温かい霊圧が嘘ではないという事くらい。
何の迷いもなく込められたであろう温もりに。
もみじの葉が示す、確かに守られた約束。
「……いつ帰って来るかくらい教えろよ、バカ市丸」
大好きだよ。
この温かい霊圧は、その言葉に対しての返事だって。
「……勘違いするだろ」
少し、笑って。
もみじの葉をぎゅっと抱き締めて。
あとほんの少しだけ、待ってみようかな。
何事も無かったかの様に戻って来るかもしれないから。
「……ありがとう」
待つのは、辛いけど。
また前みたいに笑い合える日が来るのであれば。
皆が敵だと言い切る奴を、信じてみるのも悪くはないのかも。
もしその日が来たら、
今度は二人して、あの庭園に行こう。
大好きな人を、隣に並ばせて。
End
ガチマイが愛して止まない水無月様vvこの文才は神ですね☆
お人柄も良く、ガチマイは一生付いて行くと心に決めました(勝手に)
<< Back